1153│為朝神社

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ソース場所:韮崎市神山町北宮地

●ソース元 :・ 土橋里木(昭和28年)「甲斐傳説集」山梨民俗の会
       ・ 甲斐志料集成3(昭和7-10年)  甲斐志料刊行会 編 p129 「裏見寒話」巻之二 社閣 の項より      
●画像撮影  : 201年月日
●データ公開 : 2017年01月05日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他   : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。

 

【概要】  源頼朝、義経兄弟の叔父にあたる源為朝(鎮西八郎為朝)は、若い頃より暴れん坊として父親からも持て余されていた。そんな為朝も保元の乱では崇徳上皇側につき敗者となったが、武勇を惜しまれ助命され伊豆大島に流された。しかし、そこでも島民を従え暴れだしたので、ついには討伐されたという。 九州に飛ばしてみても、伊豆大島に流刑されても、それぞれの地域で手下を集め、しぶとく暴れまわったので、討伐されても、「どこかへ隠れ住んだ」と信じられ、日本各地にその後の源為朝の話が伝わっている。 また、為朝は疱瘡が流行した時も病に罹らなかったと云われた事から、疱瘡神として信仰されている。 韮崎市神山町にも為朝の宮がある。

為朝の宮    北巨摩郡神山村武田

新羅三郎義光の氏神武田八幡宮の左方、山の内に鎮西八郎為朝の宮があり、疱瘡の願をかける。むかし八郎為朝伊豆の島より二匹の鬼を連れてこの地に来たが、ここから二十余町東の韮崎地内船山という所に、的をかけて遠矢を射られ、二匹の鬼に矢取の役をいいつけた。道のり遠く鬼共は難儀をいたし、後には射た矢を途中で取って、為朝の所へ持ってくるので、為朝も考えて管矢を射ることにした。鬼供が途中で矢を取ると、管ばかりが手に残り、本矢は管を抜けて船山に射通してしまうので、これには鬼共もワニタ(赤面した)。ワニルは甲州方言で、鬼の居た所をワニ塚という由であるが、これは鬼塚の訛音であろう。   (甲陽随筆。甲州噺)

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為朝の木像    北巨摩郡神山村武田

氏神の八幡宮の神社内に、為朝公の古い木像がある。普通の大人よりも大きいもので、むかし疱瘡が流行の時、この木像を信仰すれば必ず全快するといって、皆参拝に行った。毎年九月十五日が、この神社の祭日である。    (松のしらべ方言伝説号)

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鍋山八幡    御朱印地  神主  攝津
武田八幡の南に在り。此の山中に為朝の城跡ありと不審。

(甲斐志料集成3(昭和7-10年)  甲斐志料刊行会 編 p129 「裏見寒話」巻之二 社閣 の項より) 編者の野方成方は為朝の言い伝えがあるが「城跡は違うだろう」と感想を記している。

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山梨県韮崎市神山町北宮地1198  為朝神社
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