物語
Old Tale
#1543
安田義定公
ソース場所:放光寺 山梨県甲州市塩山藤木2438
●ソース元 :・ 現代語訳 吾妻鏡 五味文彦・本郷和人 編 参照
・ 放光寺hp http://www.hokoji.org/yasudayoshisada.html 参照
●画像撮影 : 年月日
●データ公開 : 2020年04月02日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
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[概要] 平安時代の終わりごろ、朝廷の力が弱まり、武家が台頭してきた時代。甲斐の国においても甲斐源氏が力をつけてきた。甲斐源氏の中でも、安田義定は恵まれた財政と、強大な軍備を持ち、後白河法皇からは源頼朝を抑えるための駒のように扱われるほどだった。もし彼に野心があったなら天下を手に入れることも出来たかもしれない。ただ、彼は領民のため産業や耕作地の整備などに力を尽くす人だったようだ。そして、後の世の武田信玄は彼の事を尊敬し、安田義定公に縁の寺社を保護した形跡がある。
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安田義定公(1134-1194年)
清和源氏の河内源氏系一門を、一般的に「源氏」と呼ばれる武士の祖とされている。
八幡太郎と呼ばれた(当時本名を名乗ることにより呪術をかけられることを嫌い、ゆかりの地を付けた呼び名)源義家、賀茂次郎の源義綱、新羅三郎の源義光の三兄弟を「河内源氏三代」とよぶ。苗字を手掛かりに自分の先祖を1000年さかのぼると、だいたい藤原氏か源氏(他にも平氏、橘氏、菅原氏などもありますが数的には)につながるといわれるくらい各代でいろいろな苗字に分岐していく。
源義光(新羅三郎)の子 源義清(武田冠者)、孫 源清光親子が 大治五年(1130)甲斐に配流(積極的進出ともいわれている)されてから、甲斐源氏の歴史が始まった。
清光の子 光長[逸見氏]、信義[武田氏]、遠光[加賀美氏]、義定[安田氏]、義遠[浅利氏] 達は甲斐の国の各所で力をつけていった。(*義定は義清の子であるという説もある。今のように生まれた時から兄弟が一緒にいるわけではなく、母も違っていたり、弟より年長の息子もあるので、兄弟というより一族という感覚だったでしょう。)
峡東地域に勢力を持っていた古代 在庁官人の三枝氏が応保二年(1162年)「八代荘停廃事件」を契機に凋落した後、安田義定公は、峡東地域を根拠地にしていった。八幡荘(今でいう山梨市周辺)の荘園経営ばかりでなく、牧荘と呼ばれた牧丘地区・乙女高原辺りで軍馬を繁殖育成し甲州騎馬軍団の礎をつくった、また黒川金山の開発も行っていた。義定公は当時には珍しい多角的経営の才ある武人だった。
治承四年(1180年)、後白河法皇の皇子 以仁王による「平家追討」の令旨により始まった「治承・寿永の乱」(一般的に「源平合戦」と呼ばれることが多い)では、「石橋山の戦い」で源頼朝に勝利した平家方の俣野景久・橘遠茂が、余勢をかって甲斐に攻め込んできた。それを安田義定らが富士北麓の「波志太山」(現在その正確な場所はわかっていない、足和田山あたりではないかといわれている。)で八月二十五日、平家方を襲った。前夜富士北麓で野営中、景久と部下たちの持つ百張り程の弓の弦がネズミに食いちぎられ(何だか暗闇でスパイ工作が行われたかのよう。金山を探す山師のような人達なら、夜の山中で自由自在に動けたんじゃないだろうか?など妄想が膨らむ。)使い物にならなくなっていた景久軍は、あたふたと太刀で向かったが、たまらず景久は敗れ逐電した。安田義定ら甲斐源氏は、その後(信濃諏訪郡に進出して、信濃地区に安定基盤を築いていた)甲斐源氏の頭領 武田信義らと合流した。九月二十四日、甲斐源氏一族は軍議を開き、それまで個々に独立勢力を張っていた一族は「一人の誉れよりは甲斐源氏として武勲をあげよう」と結束。駿河への侵攻を決定した。(実際、武田有義・信義、秋山光朝、平井義直、加賀美長清はそれ以前、平氏家人として本拠地を領していた。鎌倉幕府成立時、幕府方の主要メンバーはほとんど平氏家人から幕府方に寝返った氏族である。源平合戦などと呼ばれるが、頭が平氏と源氏であるだけで、それぞれの領地や立場から命がけの赤白オセロゲームが始まった。)
一方、「波志太山の戦い」で敗北を喫した駿河国目代 橘遠茂は、甲斐源氏が軍備を整えているという噂をききつけ、駿河、遠江から兵を集めた。「波志太山の戦い」がネズミに弓づるを噛み切られるなどし、戦いらしい戦いもしないまま一方的にやられたこともあり、「あんな偶然さえなければ簡単に勝てたものを」と思ったのか、平維盛が来る前に、「石橋山の戦い」の頼朝軍のように甲斐源氏をも蹴散らしてやろうぞとほくそ笑んでいたのかわかりませんが、十月十四日、甲斐源氏(武田信義・一条忠頼・安田義定ら)と平氏方(橘遠茂・長田入道)は富士山麓の鉢田(こちらも現在地は不明)で激突した。「鉢田の戦い」では、地理を知り尽くしている甲斐源氏軍が、山峡の盤石を削ったような狭隘な地で待ち伏せし、前進も退却も思うようにならない平家軍を攻め、長田入道の子息二人は梟首(さらし首)され、橘遠茂も捕らわれた(吾妻鏡・治承四年十月十七日の項には、「鉢田の合戦で加藤太光員が目代遠茂を討ち取り」とあるので捕らえられたのち梟首か?)。これにより駿河は甲斐源氏に実効支配され、治承四年十月二十日の「富士川の戦い」で平維盛が敗北する要因となった。
(この「富士川の戦い」は、歴史に興味のない者でも知っている、戦わずして勝利した合戦である。ただ、鎌倉幕府による建国記「吾妻鏡」では源頼朝vs征夷大将軍 平維盛とされているが、この戦いの実情は甲斐源氏軍vs平維盛軍であったとされている。)
関東での源氏の挙兵を知り、平清盛は平維盛に源氏追討を命じた。平氏方は進軍しながら諸国の武者をかき集め、7万騎の大軍となったと伝えられる。ただ、兵糧の欠乏などで、平氏方の士気は下がり、脱走者も相次ぎ、富士川で甲斐源氏と対峙した時は2000騎程度だったといわれている。夜になり、武田信義・安田義定の部隊は平氏の背後を突こうと、富士川の浅瀬に馬を乗り入れたところ、水鳥が反応し一斉に飛び立った。元々士気が下がり、甲斐源氏のこれまでの勢いに怖気づいていた平氏方は、この羽音に大混乱し総崩れになり、その後軍勢を立て直すこともできないまま全軍散り散りになった。平維盛が京に戻った時はわずか10騎ほどだったという。
この時期の政治は、後白河法皇はじめとする貴族たち、少年時代を宮中で過ごし策士の才もつ頼朝ら鎌倉幕府中枢の、陰謀・謀殺渦巻く時代だったので、昨日の戦友は今日の仇、兄弟同士の血みどろの争いが続いていた。富士川の戦いに際して、それまで個々に独立勢力を張っていた甲斐源氏一族は「甲斐源氏として武勲をあげよう」と結束することにより、大きな勢力になっていった。
平氏追討に活躍した木曽義仲と後白河法皇が反目しあい、法皇が頼朝へ上洛を促すと、頼朝は法皇に対し義仲追討の勅令を出すよう要請、これによって頼朝は源氏の中での優位性を確保し、弟の源範頼・義経に木曽義仲追討を命じた。武田信義の嫡男 一条忠頼・安田義定はこの軍勢に加わり、元暦元年(1184年)「宇治川の戦い」で義仲を滅亡させた。
話が前後するが、寿永二年(1183年)木曽義仲に敗れ、七月に安徳天皇と三種の神器を奉じ九州大宰府まで逃れた平氏は、この源氏同士の抗争の間に勢力の立て直しを行い、瀬戸内海を制圧、中国・四国・九州を支配し、京を奪還する準備をしていた。
安田義定ら(他には武田信義の子 武田有義、板垣謙信)、は「宇治川の戦い」後、「一ノ谷の戦い」(義経の鵯越[ヒヨドリゴエ]で有名な戦い)に参戦、搦手の義経軍につき平氏に大打撃を与えた。この戦いに関しては、後日鎌倉幕府に討たれることになり歴史の上から抹殺されていった者や、物語としての「平家物語」の脚色などがあり、主戦場や戦法など不明の点も多いが、大軍の平氏に対して小軍の源氏が奇策を用い勝利している。
その後、源氏軍は敗走する平氏軍を追い「屋島の戦い」そして幼い安徳天皇と三種の神器のうちの天叢雲剣が失われる「壇ノ浦の戦い」に至る。こちらには安田義定は進軍していない。
このころから頼朝による平家追討のヒーロー達の粛清が開始される。
頼朝は少年時代を貴族社会の下で過ごしたため親兄弟であろうと自分の権力闘争の駒として陰謀・策謀めぐらす事が常識になっていたのか、若しくは大いなる理想のために少しでも貴族社会にすり寄る(かのようにみえる)武人達を嫌ったのか、その手立ては後白河法皇以上にえげつない。半面、幼き頃より皇后宮権少進(統子内親王が院号宣下をうけると上西門蔵人)となり、殿上人たちに可愛がられ、平治の乱では父兄らが処刑されたり謀殺されるなか清盛の継母 池禅尼の嘆願により命を助けられたりしたせいなのか、女性には操られがちに思う。(ここは筆者の勝手な頼朝イメージ)
頼朝による粛清(甲斐源氏に関係の深い)
元暦元年(1184年)四月二四日 頼朝の娘婿 源義孝(木曽義仲の子)を武蔵国入間川原で討つ
同年 五月 義孝の残党狩りと称して鎌倉から軍勢が出発、残党狩りとしては大規模で甲斐にも進攻している。こうして後の一条忠頼の一件でも武田家が身動きできない状況がつくられる。
同年 六月二四日 武田信義の嫡男で宇治川の戦いでも戦功のあった一条忠頼が鎌倉に招かれ酒宴の最中、頼朝の目前で殺害される。それまで朝廷からすれば甲斐源氏と頼朝ら鎌倉は同列であったが、これに対して歯向かう事のできなかった武田氏は弱体化する。甲斐源氏の中でも力を持った一族を陰謀で粛清し、庶流の一族を取り立て、甲斐源氏の結束を崩していった。
文治二年(1186年) 武田信義は嫡男を謀殺され失意のうちに病没したと言われる。
同年 源義経 討たれる。大きな戦功をいくつも挙げてきたが、兄の頼朝から疎まれ討たれる事になった。義経討伐を理由に奥州に勢力を誇っていた藤原氏をも滅亡させた。
建久三年(1192年)三月一三日 後白河法皇 崩御 後白河法皇は頼朝を征夷大将軍にはしなかった。そして、甲斐の国で力を持っている安田義定をいざという時の駒にしようと飴と鞭でコントロールしてきた。安田義定は天下を取ることには何の興味もないという態度で、法皇にも鎌倉にも接してきたがパワーバランスが崩れてきた。
建久四年(1193年)三月 信濃国三原野の巻狩り(信濃・越後の入り口 義定の嫡男 義資の所領などに通づる)
同年 四月 下野国那須野の巻狩り(奥州口 奥州・藤原氏 佐竹氏へのにらみか)
同年 五月 富士の巻狩り(安田義定の所領と重なる)これらの巻狩りは関東一円の武士を集め長期間行われた。当該の地では接待等の費用もかかり、動物を追いながらあちこちに移動するので地理地勢など丸裸にされたと思われる。また富士の巻狩り中、工藤祐経が曽我兄弟の仇討に遭い討たれる。混乱の中一時は「頼朝が討たれた」との誤報が鎌倉に伝わる。これを嘆く頼朝の妻 政子に「範頼がいますから大丈夫です」と慰めたのが、謀反とされ源範頼は伊豆に流されている。彼もまた歴戦の勇者であった。義経とは違い、兄である頼朝にはこまめにお伺いを立てたり、公家である養父との接触にも慎重だったが、このような結果となった。修善寺に幽閉され八月一七日亡くなったとされる。
同年 十一月二七日 安田義定の嫡男 安田義資が、永福寺薬師堂供養の際に女官に(弟からの)ラブレターを届けたとの科で梶原景時の讒言にあい、翌二八日、頼朝の命を受けた加藤景廉に殺害され首をさらされた。同様にラブレターを送った北条義時は処罰されず、逆に頼朝の仲介で結婚していることから、滅ぼすという結果を出すための言いがかりだった。
同年 一二月 安田義資の事件の責任を負わされ、父 義定が所有していた遠江の所領が没収され、遠江国守護職も剥奪される。
建久五年(1194年) 八月一九日 安田義定は所領を没収された後、本拠地にひきこもり、知人らに対し大切な嫡男 義資の死を悲しみ嘆いた事を「謀反を考え幕府を批判している」とされ安田義定は梶原景時、加藤景廉に攻められ自害。そして梟首された。
(*漢数字の日付は陰暦。戦歴などは安田義定公の状況がわかる主だったものを記している。)
こうして、頼朝と並ぶ力を持った甲斐源氏は弱体化させられ、歴史の表舞台から一時退場し三四百年後の信虎・信玄の時代に再び花咲かせることになる。
安田義定公の時代に安田氏の菩提寺となった甲州市の放光寺には、義定公が建久二年(1191年)奉納した梵鐘や、彼が集めた貴重な仏像、奈良から招いた仏師 成朝によるとされる金剛力士像などがある。そのほかに毘沙門天立像があるが、これは安田義定の姿を写したものともいわれている。
今から約500年前武田信玄公がこの世に生を受け、さらにその400年ほど前に生まれ、天下を目前にし、歴史から去って行った人がいました。
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