1556│古尊躰寺

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ソース場所:金幣稲荷神社 旧尊躰寺 甲府市武田3丁目10

●ソース元 :・ 甲斐志料集成3(昭和7-10年)  甲斐志料刊行会 編  
●画像撮影  : 年月日
●データ公開 : 2020年08月24日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他   : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。

 

古尊躰寺
甲府市城東一丁目、旧町名で言えば 曲尺手町に浄土宗のお寺 功徳山 尊体寺 がある。武田信虎が大永元年(1521年)に建立した寺ですが、武田氏滅亡後、甲府城築城に伴い元柳町(現 武田三丁目)から現在地へ移ってきています。移転前の地を 古尊躰寺 と呼んでいます。江戸時代に書かれた「裏見寒話」(裏見寒話とは、野田成方が甲府勤番士として在任していた享保九年~宝暦三年(1724-1753)までの30年間に見聞きしたり、調べた甲斐の国の地理、風俗、言い伝えなどをまとめたものです。只々聞いたものを記すだけでなく、良く考察されており、当時の様子や、一般の人達にとって常識だった歴史上の事柄を知ることが出来る。)に古尊躰寺の事が記されている。

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古尊躰寺  古府中元穴山町の裏
寺跡、一町四方。今でも尊躰寺の地である。天正年間、武田氏滅亡後徳川家康が甲斐に入国の際、ここに陣を営した。
〔天正時代、御陣営時のはなし〕
庫裡へ編み笠をかぶり、帯刀した乞食のような男がやってきて歌を歌う。とても上手で皆感心して聞きほれていた。ところが、その男は隙を突き、脇差を抜き御家人らへ切りかかり、四、五人にけがを負わせ、奥をめがけて切り行っていった。御家人たちは不意を突かれ防戦できず慌てふためいた。ついに男は御座近くまで侵入してきた。
御近習衆の一人が家康公の膝元へ来て「男は余程の腕を持ち猛勇です。願わくば今生のお暇をいただき、男の狼藉を鎮めようと思います」と伝え、男へ向かっていった。この近習もなかなかの猛勇だったが、相打ちの覚悟で向かいますと言い切り出していった。終に両者とも重い傷を負い死んだ。
乞食風の男は武田の浪士で、勝頼の報復の為に乞食の姿に身をやつし陣中へ入り込んだのであろう。家康公も忠義を賞そうとして、姓名など分かるものは無いだろうかと調べたが、誰も知るものがいなかったので、近習と男の両者の墓を立て、互いの忠良を石に刻み、後世に伝えようとした。これは今でもこの地の草むらの中にある。
この処遇を聞いた国内に潜んでいた武田衆は、家康公の仁聖と、信長の無道はかけ離れていると大いに感じ入った。
織田父子は、それからいくらも日をおかずに、京にて殺されている。

「裏見寒話」 巻之二 寺院 の項参照(甲斐志料集成3 p153)

【裏見寒話とは、野田成方が甲府勤番士として在任していた享保九年~宝暦三年(1724-1753)までの30年間に見聞きしたり、調べた甲斐の国の地理、風俗、言い伝えなどをまとめたものです。只々聞いたものを記すだけでなく、良く考察されており、当時の様子や、一般の人達にとって常識だった歴史上の事柄を知ることが出来る。】

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金幣稲荷神社 甲府市武田3丁目10
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