物語
Old Tale
#1561
萬年山 大泉寺(万年山大泉寺 甲府市古府中町5015)
ソース場所:大泉寺 甲府市古府中町5015
●ソース元 :・ 甲斐志料集成3(昭和7-10年) 甲斐志料刊行会 編 甲斐志料刊行会 編『甲斐志料集成』3,甲斐志料刊行会,昭和7至10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1240842 (参照 2024-08-27)
●画像撮影 : 年月日
●データ公開 : 2020年08月25日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他 : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。
【概要】甲府市古府中町にある 萬年山 大泉寺は、大永元年(1521年)武田信虎が開基した。この寺には、「武田信玄誕生時の不思議なお告げ」についてのお話がある。
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萬年山 大泉寺 古府中 曹洞宗独禮
(信虎期から晴信期にかけ 中山広厳院 とともに 甲斐国領内の曹洞宗を統括する僧録所)
甲州曹洞宗の総録常法幢独禮 中山広厳院 と両寺なり。
この寺は 武田信虎 開基で信虎の墓所もある。
寺の縁起を見ると、青年時代の信虎が今川の家臣 福島氏 と飯田河原での合戦に打勝ち夢見山で祝宴を開いた際、眠気がおそいうとうとと夢を見た。その中で「たった今、曽我時致[源頼朝が催した富士の巻狩りの最中に、曽我兄弟が父の仇である工藤祐経を討った事件があり、それは日本での三大仇討とされ、武家の世界ではその勇猛ぶり、潔さなどが仇討の模範とされた。また芸能の世界でも曽我物として繰り返し演じられる人気演目となり庶民も兄弟の活躍に心躍らせ、その最後の場面には涙するといった有名な兄弟であった。時致は弟]の生まれ変わりとして子どもが誕生した」と告げられた。間もなく城から若君誕生の知らせが届いた。戦勝祝いの席で誕生を知らされたので勝千代と名付けられた。後の信玄である。そして勝千代は、生まれた時から右手を固く握りしめたままであった。
天桂和尚(大泉寺初代住職)が富士山麓を通った時、急に日が暮れ、一軒の粗末な家を見つけ宿を乞うた。婦人が出てきて「主が留守をしています。しばらく待って下さい」という。すると間もなくその家の主が甲冑姿で帰って来た。主は天桂和尚に向かって「私は曽我十郎祐成[曽我兄弟。兄]である。弟の五郎時致は生前、箱根での誦経持仏の功徳により、今、甲州の太守の子として生まれ変わることが出来た。私はそういう功徳が足りずにまだ苦しんでいます。信虎に法華経一万部読誦してくれと伝えてはくれないだろうか?曽我の証に家宝の目貫一つを渡します。もう一つは時致の右手に握られています。かの地に大泉と言う池がある、その水で時致の右手を洗えばその手を開くでしょう。」と言うか否や庵ともども姿がかき消すように見えなくなった。見上げればまだ昼近くの空だった。それから甲陽を目指し竜王村の慈照寺に泊った。慈照寺は信虎にも縁の深い寺だったので、すぐさま天桂和尚は信虎に招かれ、富士の麓での話を伝えた。大泉の水で勝千代の握りしめられた手を洗うとたちまち開き、一つの目貫が現れた。その目貫を天桂和尚から渡された物と並べてみれば一対の目貫であった。
この池は山の陰で富士山は見えない所にも関わらず、水面に富士山の影が映ったという。これによって、その池から流れ出る川を富士川と呼ぶ。
信虎はすぐに禅寺を創営し大泉寺と名付け、天桂和尚を開山とした。そして法華経一万部を営む。曽我兄弟の位牌もおさめられている。
「裏見寒話」 巻之二 寺院 の項より
【裏見寒話とは、野田成方が甲府勤番士として在任していた享保九年~宝暦三年(1724-1753)までの30年間に見聞きしたり、調べた甲斐の国の地理、風俗、言い伝えなどをまとめたものです。只々聞いたものを記すだけでなく、良く考察されており、当時の様子や、一般の人達にとって常識だった歴史上の事柄を知ることが出来る。】
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