物語
Old Tale
#1590
加古坂神社と殉難の忠臣(山中湖村平野籠坂峠)
ソース場所:加古坂神社 山中湖村平野籠坂峠
●ソース元 :・ 現代語訳 吾妻鏡 五味文彦・本郷和人 編 参照
・ 現地説明板
●画像撮影 : 年月日
●データ公開 : 2021年08月05日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他 : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。
【概要】 山中湖から富士山の東側を抜け、静岡県小山町方面に向かう途中、ちょうど県境の籠坂峠に加古坂神社がある。これは、承久三年(1221年)、後鳥羽上皇(朝廷)と北条義時(鎌倉幕府)との主導権争いである「承久の乱」が起った時の、朝廷側の中心人物であった藤原光親(葉室光親)を祀った神社です。敗戦後、彼は護送されてこの近くまで来て処刑されました。 光親は立場上、朝廷側中心人物として活動したが、後鳥羽上皇の倒幕計画の無謀さを憂いて、何度も上皇を止めようとしていたことが後にわかり、北条泰時は光親の処刑をひどく悔やんだと「吾妻鏡」には記されています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
◎加古坂神社 略誌
・ 社地 山梨県南都留郡山中湖村籠坂二四三番地
・ 社名 当初 太良宮第六天神 後に 加古坂神社 と改称
・ 祭神 主祭神 藤原光親 朝臣命[フジワラノミツチカ アソンノミコト]
相殿神 級津彦命[シナツヒコノミコト] 級戸辺命[シナトベノミコト](風神)
・ 由緒 往古より此地に鎮座し 同村 諏訪神社 の飛地 境内末社なり。命は承久の乱 殉難の忠臣にして 後鳥羽上皇 の親任篤く 權中納言按察使正二位に叙せらる。承久二年 上皇 北条義時 追討の御企あり既にして官軍利あらず。
命 は 義時 の命ずるままに 甲斐國石和の城主 武田五郎信光 により籠坂山頂に於いて斬首の刑 遇はせられたり、時に齢四十六才實に七月十二日なりき。
古来地方民の崇敬篤く此の祠を建て命の霊を祀る。爾来年久しうして荒廃甚だしく 明治四十二年九月社殿を再建す。
尚、昭和四十三年十一月廿日 明治維新百年記念事業として現社殿を再建す。
・ 祭礼 例祭は陰暦七月十二日神輿渡御と共に神賑として小中学校生徒の音楽パレードと氏子の民謡のど自慢其他多彩の行事あり。
昭和五十年十月一日 山中湖村旭日丘氏子崇敬者
・ 追記 昭和五十八年癸亥歳 山中氏子総代建立委員会により神殿鉄筋工事により新築落成す。同年旭日丘氏子により宝物殿 並 石畳 他附帯備品を奉納す。 (現地 略誌板より)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
藤原光親と彼のいた時代
「吾妻鏡」より
承久三年五月十九日 (鎌倉幕府の御家人たちの気持ちを一気に一つにまとめた事で有名な、「北条政子の演説の日」の出来事です。)
未の刻に 三善長衛が十五日に出した伝令が鎌倉に到着します。
「昨日(五月十四日)西園寺公経[サイオンジキンツネ] と 西園寺実氏[サイオンジサネウジ] が後鳥羽院の命令で 二位法印 尊長[ソンチョウ] に連れていかれ弓場殿に閉じ込められました(彼らは鎌倉幕府と近しい関係にあった)。 また(後鳥羽院から呼び出されたが、呼び出しに応じれば待ち伏せし伊賀光季を暗殺しようとする院の企みに気付き「院からの命令でも、支障があり行けない」と従わなかった)伊賀光季[イガミツスエ] の所へは、十五日昼頃 朝廷軍が向かい、光季は攻め殺されました。 それから後鳥羽 院はすぐに 按察使 光親卿[アゼチ ミツチカ キョウ] に命じて「北条義時を滅ぼせ」と言う院宣を 畿内五か国 と 七街道 に向かい出させた。」という。(伊賀光季の妹が北条義時に嫁していた。また、能力も高く、人柄も良い光季は京にいる鎌倉武士たちのまとめ役のような位置にいた)
この 後鳥羽院 に命じられ院宣を発した 按察使 光親 こそが、加古坂神社に祀られている 藤原(葉室)光親 です。
光親は後鳥羽院らの計画の無謀さを憂いて、何度も必死に上皇を止めようとしましたが、後鳥羽院は北条義時と摂津国長江庄・倉橋庄の事で揉め、言うことを聞かない義時を生意気に思いとても腹を立てていました。こんな時に「三代将軍 源実朝 が殺され、源頼朝の血をひく者が一人もいなくなった今こそが、鎌倉の幕府とそれを牛耳る北条氏を滅ぼす、二度とはないチャンス」と信じている上皇の考えを変えることは出来ませんでした。そして光親は「北条義時討伐」の院宣を執筆することとなりました。
実朝の死後、バラバラになりかけていた鎌倉幕府の御家人達でしたが、「北条氏を倒した者に好条件が与えられる後鳥羽上皇の院宣」の到着よりも、数時間早く 伊賀光季 からの伝令や、「伊賀光季が殺され、自身も後鳥羽院の命により閉じ込められたことを知らせる」 西園寺公経 方の伝令が届いていた事で、幕府は鎌倉武士達を集め、北条政子の「今こそ頼朝公への、山より高く、海より深い恩を返すべき時です!」という声明を発することが出来ました。これにより幕府方は一段と強く結束しました。
京都ー鎌倉間は現在の国道1号線経由でも430km強の道のりです。当時は川などがあれば大きく迂回していったのでしょうから更なる道のりだったのです。そこを、それぞれの伝令たちは4日程で鎌倉まで届けています。それぞれが情報の早さと正確さが戦いを制す事を良く理解していたからだと思います。また幕府軍は、京へ攻め上るときは、朝廷に歯向かってよいのだろうかと、日がたつと色々な異論が出てくる。一刻も早くたとえ北条泰時一人であっても出発すべきと大将の出陣の早さも重視していた。
源平合戦のころ、平氏は「今日は日が悪い」とか「方角が」などと言って出撃の日を繰り延べたりしている中、頼朝は勝敗だけでなく、戦況なども知らせる伝令を送った者を褒め、情報は早さと正確な内容が大切なことを伝え続けていた。後鳥羽院もそのことは十分知っていたからこそ、院宣もかなり近い時間に届いていた。また、院宣を広域に広めることにより面で戦いを仕掛けようとしているところから、かなり練り上げた策を持っていたのかもしれない(後鳥羽院は文武両道に優れた人物だったようで、政治家のたしなみである和歌などにも優れた作品を残している。また書画、琵琶、蹴鞠、水練、流鏑馬などあらゆることに長けていた。机上で軍事作戦を練るようなこともしていたらしい。しかし、天皇即位の際に三種の神器のうち源平合戦で失われた草薙剣が足りないことをコンプレックスとしていた。このコンプレックスをはねのけようとより賢く、より強い王であろうとしていた。)。 しかし、当時の鎌倉幕府のプロパガンダ能力の方が1枚上手だったのでしょう。政子の声明の前に陰陽師を何人も呼び、「関東は何の心配もなく太平である」と占わせている。この戦いの中、鎌倉の北条義時の館に落雷し下働きが亡くなってしまう。朝廷に弓ひく事を怖がる義時に、奥州征伐の時も陣に落雷したけど勝ってるから大丈夫。陰陽師たちも「占いでも最高に吉ですよ」というくだりがある。たとえ良くない卦が出ていようとも「占いでよい卦が出ているから大丈夫」と士気を上げ続けていたのではないかとさえ思う。(これは個人的感想です。根拠のない大丈夫は大丈夫ではないが、鎌倉幕府は何かなすときに準備を整え、爆発するタイミングを待つような武力運営をしている事が多く見られるように思う。)
そして幕府軍は上皇に対し宣戦布告し、京に向かい怒涛の進撃をし、まさか幕府軍がこんなに早く出撃して来るとは思ってもみなかった上皇らは狼狽し、西国の武士に参戦を命じるも、鎌倉方の進撃が予想以上に早く、大軍であった為、伊賀光季の死より一月ほどで、京は幕府軍に押さえられてしまった。この上皇側の敗北により、幕府の支配が西日本にも強く及ぶようになり、また幕府が朝廷の監視を行うようになりました。
さて、藤原[葉室]光親ですが、「吾妻鏡」承久三年(1221)七月十二日の項にこのようにあります。
按察卿[光親。先月出家した。法名は西親]は、武田五郎信光の預かりとなり、京都を出ました。鎌倉に向かう途中、幕府の使者が駿河國車返のあたりまで来て、「処刑するように命令が出ている」と伝えたので、籠坂峠で首をはねられました。時に四十六歳でした。この卿は二人とない程の忠臣であり、才能に優れ、今回の事にも特に心を痛め、頻りに後鳥羽上皇に対し、諫言を繰り返しましたが、それで上皇を怒らせてしまい、ついに進退窮まり「北条義時追討」の命令書を書くことになってしまいました。忠臣であれば諫言しかないのでしょうか?彼の諫めの手紙が数十通、仙洞の御所に残っていました。後日、これを見せられ、武州泰時(北条泰時)は光親の処刑を後悔したそうです。
光親は結果として後鳥羽上皇方 中心人物として捕らえられ、この様な人家もないさみしい地で処刑されてしまいましたが、此の地の人々は、光親への崇敬篤く祠を建てて彼の霊を祀りました。
その後の 後鳥羽上皇 と、もう一人の首謀者 順徳上皇 については、アーカイブNO.1580「常説寺の白輿」を参照してください。
このデザインソースに関連する場所
Old Tale
Archives
物語
山梨各地に伝わる昔話や伝説、言い伝えを収録しています。昔話等の舞台となった地域や場所、物品が特定できたものは取材によって現在の状態を撮影し、その画像も紹介しています。