物語
Old Tale
#0556
鎮西が池
ソース場所:大月市初狩町下初狩 滝子山山頂近く (35.62975,138.85231)
●ソース元 :・ 山梨県連合婦人会 編集・発行(平成元年)「ふるさとやまなしの民話」
・ 内藤恭義(平成3年)「郡内の民話」 なまよみ出版
●画像撮影 : 201年月日
●データ公開 : 2016年06月24日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他 : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。
[概 要] 源頼朝、義経兄弟の叔父にあたる源為朝(鎮西八郎為朝)は、若い頃より暴れん坊として父親からも持て余されていた。そんな為朝も保元の乱では崇徳上皇側につき敗者となったが、武勇を惜しまれ助命され伊豆大島に流された。しかし、そこでも島民を従え暴れだしたので、ついには討伐されたという。大月の山中に為朝夫人の白縫姫が隠れ住んだと伝わるお話があります。
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鎮西が池はとても小さな池なので、すぐ脇の白縫神社が目印になります。
源為朝(鎮西八郎為朝)は、源頼朝、義経兄弟の叔父にあたる。体が大きいうえ気性も荒かったとされる。弓の使い手もである。父の為義にもてあまされ、九州へ追放されたが、保元の乱(鳥羽法皇が崩御したあと、崇徳上皇と後白河天皇が覇権を争った)では父と共に崇徳上皇方についた。一方、為義の嫡男 義朝は多くの東国武士と共に後白河天皇についた。保元の乱で、崇徳上皇側だった為朝は敗者側だったが、武勇を惜しまれ助命され伊豆大島に流刑となった。が、傷が癒えるとそこでも大暴れし、討伐された。
武勇と都から何度追放されても、その先で力を発揮するところから、ほかの地に逃れたというような伝説が多くある。
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滝子山にまつわる白縫姫の話
今からおよそ八百年もの昔のことです。
弓の名人で知られた鎮西八郎為朝は、血気にはやるおこないが多かったので、父為義の怒りに触れ、肥後(九州)の城主・平忠国のもとに預けられてしまいました。
忠国には、白縫姫とよばれる美しい娘がいて、為朝はこの姫と結ぼれたのですが、まもなく父に呼びもどされ、保元の乱で、父に従って戦うことになりました。為朝の留守中に姫は男の子を生み、為若丸と名づけました。保元の乱では為朝の軍勢は父為義が切られ、姫の父もほろほされてしまいました。このとき白縫姫は、まだ乳呑児であった為若丸とともに、おつきの者に護られてひそかに城をのがれ、世を忍んで諸国を逃げ歩く旅を続け、ついに甲斐の国にたどり着いたのですが、追手の目をのがれながら、山や谷の道もないところを歩いて、苦労を重ねて、やがて、鎮西山に(今の初狩町滝子山)に着きました。そして山上に小屋を造って住み、水の湧くところに池を掘って、鎮西池と名づけ、別れ別れになった夫 為朝をしのんでいました。
しかし山の上の生活は殊のほか厳しかったので、姫は麓の里に移り、里人の温かい心に見守られてひととき平穏に過ごしたのですが、なおも追手のくるのを恐れて、為若丸を彦太郎と名を変えて里人に預け、故郷の肥後へ向って旅立ったと伝えられています。鎮西池は今も滝子山にあって、白縫姫の伝説をよみがえらせています。
山梨県連合婦人会 編集・発行(平成元年)「ふるさとやまなしの民話」
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鏡ケ池
源為朝は朝廷のいうことをきかず、自ら鎮西将軍を名乗ったり、勝手に九州の豪族を誠ぼしたりする、手のつけられない荒武者であった。
こんな荒武者でも保元の乱では負けて逃走するところを捕えられ、伊豆の大島へ島流しにされてしまった。おしおきを受けている身であっても、一軍の将であった為朝は、たちまち島民を従え、頭となり、海賊を働いたりして、うっぷんばらしをしていたが、とうとう我慢できなくなって島を抜け出した。
伊豆の山中を抜け、箱根を抜け、富士のふもとで都からひそかに呼び寄せた妻子家来と再会したが、とても都へ帰れる状態ではない。どこかかくれる場所を捜して源氏再興の機をうかがおうと、山から山を逃れ逃れて、いまの大月市真木に至った。
真木の恵能野の西に、滝子山と並んで同じくらいの高い山があるが、四方は見渡せるし、池があって水に困らないので、ここを拠点決めた。
源氏の再興を図って、もう一度一旗挙げたいものだと兵力を募っているうちに、都に知れるところとなって、とうとう敵に固まれてしまった。
「われらの運命もこれまで」と為朝夫人、侍女たちは次々と池に身を投げ、勇敢に闘った為朝主従もことごとく討死した。
戦が終った後、村人は死者を葬るため、池の中から死体を引き揚げたが、為朝夫人の手には鏡と玉とがあった。
泥に汚れた玉を洗ってやると、にわかに雲が天を覆い、やがて雨が降ってきた。村人は玉に霊力が宿ることを知り、祠を造ってまつった。以来、干ばつのとき玉を出して池に浸し、洗ってやれば、たちまち雨を呼んだという。
こんなことがあって、山を鎮西山、池を鎮西ヶ池といい、またの名を鏡ヶ池ともいうようになったが、付近にはお馬冷し場、菜畑などという地名も残っている。
池は埋もれてコモクサが茂る地となり、今はもう雨乞いをすることなどはたえているが、村人はいまも昔をしのんで、「玉には夫人の霊魂が宿り、玉を洗ってやると感謝の涙雨を降らせたのであろう」と語り伝えている。
内藤恭義(平成3年)「郡内の民話」 なまよみ出版
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