物語
Old Tale
#1178
およしが池の話
ソース場所:大月市笹子町吉久保 葦池の碑(35.604349,138.841277)
●ソース元 :・ 内藤恭義(平成3年)「郡内の民話」 なまよみ出版
・ 土橋里木(昭和28年)「甲斐傳説集」山梨民俗の会
・ 現地説明板
●画像撮影 : 2017年06月10日
●データ公開 : 2017年06月13日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他 : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。
[概要] 昔、笹子川のほとりに「およし」と云う美しく献身的な女性がいました。どこにも欠点が無いように見えましたが、彼女は愛が深すぎて、夫が他の人と話をしただけで嫉妬し、夫は彼女に尽くされれば尽くされるほど嫌気がさすようになり、彼女から心が離れてしまいました。 嫉妬のあまり、彼女は池に身を投じ、死んでなお成仏できずに、毒蛇となって村人を悩ますようになってしまいました。 そんな時、親鸞聖人が布教のためこの地にやって来て、およしの事を聞き、沢山の経石を池に投げ入れ、念仏を唱え、彼女の霊を慰め,済度したと云います。 それからは、毒蛇に悩まされる事が無くなったと云います。
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およしが池の話
今から七百年の昔、親らん聖人が甲州路に足を踏み入れた時のことです。
笹子川のほとり、吉が久保に、「およし」という女姓が住んでおりました。およしは働き者でよい女房でしたが、夫の浮気を嫉妬してあわれにも池に身を投じてしまいました。 そして口惜しさのあまり死んでもなお成仏できず、毒蛇となって村人をなやましつづけるようになったのです。
これを聞いた聖人は、早速吉が久保に行きました。そして付近の小石を五・六個ひろい、この小石に『何無阿弥陀仏』と六文字の名号を書き、一心に念仏をとなえ池に投げ入れました。するとたちまち毒蛇はもとのおよしの姿にもどり、成仏したのです。そして、毒蛇に悩まされることのなくなった村に、再び平和な日々が戻ったのでした。
今はそのおよしが池も埋められ昔を知る人も少くなりましたが、そのあとにつくられた念仏塚から掘り出された名号石が、真木の福正寺に伝えられて、むかしをいまに伝えています。
また、およしの父親小俣左衛門は、このことに感激して親鸞聖人の弟子になり、「唯念」の法名をいただいたということです。
山梨県連合婦人会 編集・発行(平成元年)「ふるさとやまなしの民話」
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およしが池の毒蛇
桂川の支流・笹子川のほとりにある吉久保という集落に伝わる話で、浄土真宗を開かれた親鷺聖人が、布教のため諸国を旅し、甲斐の国を訪れた時の話であるから、今から七百年も前の話になる。
名を「およし」という女房が住んでいた。恋焦がれて夫婦となった二人であったが夫は次第に女房をうとましく思うようになっていった。それというのもおよしは特別のやきもちやきで、夫が道で行き合った女性と挨拶したり、立話をするだけでも気が安らかでなかった。美しくもあり、働き者でもあり、夫思いで夫を大事にするのだが、夫にはそれがかえってわずらわしいのである。
夫はおよしを次第にさけるようになり一緒には働かなくなった。およしにははた織り仕事をさせ、自分は畑へ行った。およしが畑仕事を手伝おうとすれば夫は山へ行った。仕事の帰りも次第に遅くなっていき、やがて心易い幼友達と深い仲になり、その女のところで一時を過ごしてくるようになった。
夫の浮気は世間に知れ、やがておよしの耳にも入った。夫の帰りの遅いのは私のために精出して働いてくれるのだと思っていたおよしは、持前の痴妬心からはげしく夫を責め、責めること暁に及んだ。
責められれば責められるほど、嫌気が増すのも人情。愛情深ければこその痴妬も責められる側にしてみればおよしという女房は恐ろしい女でありますます冷たくなった女でしかない。夫は心安らぐ女の家を責められた次の日も訪れた。
夫を監視していたおよしは、自分の気持を裏切って夫がまたしてもその女の家に入るのを見届けるて、自分の愛情を受け入れてくれない夫の心を知って逆上し、こうなったからには毒蛇に身を変じて恨みをはらそうと、村はずれの沼地に身を投げた。
その時から、沼地には毒蛇が出て人々に害を与えるようになった。池はいつとはなしに人呼んで「およしが池」というようになった。蛇は素早くて、ふだんは池に潜んでいて、捕まえようがなかった。
そんなとき、親鷲聖人がおよしが池を通りかかった。聖人は話を聞くと「恐ろしい怨念じゃが、仏の力で怨念を鎮めて差し上げよう」と言って、河原から石を拾い集めては一石毎に南無阿弥陀仏の六字名号を書いて、池に投じた。その数四八八四個に及んだというが毒蛇はその後全く姿を現さなくなったという。
その後、池の水が枯れて、名号の書かれた石が街道を行き交う多くの人々に持ち去られたために、笹子川のはんらんや山崩れの災難が起きるようになったので、塚を立てて安穏を願ったという。
また、この法力を見て、親鷺聖人の法話を聴く者が多くなり、浄土真宗のお寺があちこちに建てられるようになったという。
内藤恭義(平成3年)「郡内の民話」 なまよみ出版
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親鸞上人念佛塚の旧蹟
去る程に此の前方の低地が昔時、甲斐沼池としられた葦ヶ池なりしと伝へる。
其の池の総面積は最大時は三丁歩余り 葦ヶ窪郷の四分の一をしめているとの説も伝へられる。
鎌倉時代 西暦一二二五年代 浄土真宗の開祖 親鸞上人が甲州等々力の精舎 萬福寺に参詣の帰路、此の地の地頭 北面の武士 小俣左衛門尉重澄宅に立ち寄りしところ葦ヶ池にまつわる毒蛇済度の祈願をこんせいされる。
葦ヶ窪の地頭 小俣左衛門尉重澄には「よし」なる娘有り、たまたま京より来りし半僧修行僧 晋挺(しんてい)、奈良 興福寺 法相宗の高僧 行基が造った阿弥陀海の阿弥陀堂にこもりて断食修行中、その晋挺に心よせしが 僧業身には女性のその意を深く訳得され其の意の通せざるを嘆き悲しみ この池に投身 若き生涯を果たしときく。
地頭のこん願に依り上人供養三七二十一日間 小石に六字の名号を墨書し、池中に投入するや「よし」の霊は成佛済度され池中に異様な轟き有りて「よし」の霊は観世音大士の姿となり、上人の池中に投入れた小石が白虎を帯びて先達となり郷人の驚き騒ぐ中 東南の空高く消え去りて遠く 伊豆の手石浜に落ちしと伝へる。
今も手石浜の阿弥陀「くつ」には、参詣の人の絶え間なしときく。
池には葦草が群れ、低地なる故に葦ヶ窪の地名起源とも伝えられる。
葦ヶ窪の地頭 小俣左衛門尉重澄は後に、親鸞上人の徳を慕って出家 僧行を積み 僧 唯念と称し真木 善福寺一世開山となる。
又此の時期、大布乃名号で知られる 龍泉寺 寺の下の作太郎も上人の徳を慕って僧業し、戒讃坊来信として真木 福正寺三世住職となる。
両寺共 教業信證 浄土真宗なり 合掌
現地説明板より
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悲しい伝説の池、およしが池は中央線の建設時に埋め立てられて今はない。葦池の石碑が建っているが、その部分は土を積んで池だった頃より少し高くなっている。池はその北側の少し低地になっているところから線路の南側にかけて拡がっていたそうです。甲州街道を旅する人たちはこの大きな湖沼を避け、山裾を大回りしなくてはならなかった。そこでよしが池の中に土や材木を埋め細い近道を造ったという。狭い道で前方より来る人を見たら手前で待っていなくてはならないような道だったそうです。そんな狭い道で毒蛇に出くわしたら避けることも出来なかったことでしょう。「およし」さんは、上記のような嫉妬深い美人妻の話だけでなく。当地の小俣左衛門尉重澄の美しい娘「よし」が、同家に滞在した京都の僧侶にかなわぬ恋心を抱き、池に投身し怨念化してしまったとも伝えられる。同家が現存の家であることから、美しい娘もしくは妻を池で失った小俣氏が、この地を訪れ気の毒な娘の供養をしてくれた親鸞上人に感化され、この近道の整備に尽力して「およしが池」での事故が無くなったのかもしれない。などと想像する。残念ながらそのきっかけになった「およし」は、今も昔も忌まれる自死であったため昔語りの中で毒蛇になってしまったのではないでしょうか?葦池のまわりで地元の方にこの地の話を聞きながらそんなことを考えました。
葦池の石碑よりすこし東の方向に(集落の中心地)稲村神社があり、その南に親鸞上人が毒蛇になったおよしを済度した「親鸞上人念仏塚」がある。
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