物語
Old Tale
#1571
韮崎の馬場が沓
ソース場所:韮崎市
●ソース元 :・ 甲斐志料集成3(昭和7-10年) 甲斐志料刊行会 編 ・甲斐志料刊行会 編『甲斐志料集成』3,甲斐志料刊行会,昭和7至10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1240842 (参照 2024-08-27・
●画像撮影 : 年月日
●データ公開 : 2020年08月28日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他 : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。
【概要】 馬場美濃守信房(馬場信春)は、武田信虎の時代から、信玄、勝頼の三代に仕え、「武田四天王」の一人に数えられた武将。「長篠の戦い」で勝頼軍退却の殿を務め、数百の兵で織田・徳川連合軍の追撃を阻み、勝頼の退却を見届け散っていった。その最後は「信長公記」に「働き比類なし」と評されるものだった。江戸時代の人々、特に武士にとっては「こうありたい」と思われるような武将だったのでしょう。江戸時代に書かれた「裏見寒話」に、馬場美濃守にまつわる不思議な物語が記されている。
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韮崎の馬場が沓
近ごろ東国の一国一城の主がある夜、先祖からの指示夢を見た。「信玄の寵臣に馬場美濃という忠功に良く、又、信義の勇者がいた。今、当家の家中にその子孫がいる。早々に取り立ててやりなさい。」という夢だったので、翌日、老臣などに命じて領内の家来を隅々まで尋ねまわったが、その美濃守の末裔が見つからない。
身分の低い御家人の中に、馬場某と名乗る者がいた。長臣は彼に聞いた「おまえは馬場某と名乗りながら、この度の撰挙に名乗り出ないのはどういう理由か?濃州とは姓氏の所違いなのか?」馬場は「甲州出身の馬場で、しかも美濃守の末裔とは伝え聞いております。しかし、家運が拙く、身分が低い私が、系図や伝来の武具等の証拠の無い事を申し出て、かえって人から誹りを受けるよりはと、口を閉ざしておりました。」と云う。
その後、又、太守の夢に「彼の馬場何某こそ美濃守の末裔なので、早く取り立てなさい。」と出てきた。そこでかの士を召し出して、禄を増し、仕事を変えさせた。馬場は至って清直な廉士(レンシ:無欲で正直な人)なので、さすが名も誉れもある方の子孫だけあると感心され、「おまえは甲州に赴き、同姓の氏族を尋ね、系図を正して来なさい」と命令を受け、かの士は木曽路を下り、甲州教来石の関を越え、当国に入って来た。
馬場は「田舎辺りでは先祖の由来も調べにくいだろうから、府中の賑やかなところへ行き、しばらく逗留して姓氏の跡を尋ねよう」と思い、韮崎の宿場で「何兵衛」とかいう名の駅馬問屋に行き、何蔵とかいう名の馬方に白河原毛(サラブレッド等にはほとんど出ないが、日本在来馬等にはよく現れる毛色。黄褐色~クリーム色の毛色。四肢は黒。たてがみは黒ではなく白っぽい。大坂夏の陣で、真田幸村が最期の突撃時に乗馬していたのが白河原毛だったという。[『真田幸村と十勇士』山村竜也:著])の馬を出させた。すぐにその馬に乗り甲府を目指して釜無河原を行くと、急に馬の沓が切れた。馬方が馬に向かい「お前のように沓持ちの悪い奴は居ないよ。よしよし、馬場が沓でも買って履かせてやろう。」と云う。彼の士は「馬場が沓とは何でござる?」と問うと、馬方は「この小山に老人がいるのですが、もう八十歳位になり耕作することも出来ず、今は沓を作って細々と生活しています。昔は、大名の子孫とか申し伝わっていて、彼の作る沓の事を『馬場の沓』と言うのです。」と答えた。馬場某は嬉しく思い、馬方に案内させてその小山に行こうと言う。馬方は笑って「その老人は乞食なのです。あなたのような方が、行くようなところではありません。」という。しまいに馬場某が「私がどうしてもその老人に逢って聞きたい事があるのだ。」と無理やり案内させた。
老人のもとに来てみれば、九尺四方位の小屋で襤褸を着て沓を作っていた。が顔を上げ馬場某氏を見ると、「今日のお客様は家系図をお探しとお見受けする。あなた様は濃州の嫡流なのですぐわかりました。私のような老人は明日をも知れない命なので家系図を譲りましょう」と錦の袋に入った一軸を某氏の前に差し出した。
某士は欣然として(キンゼントシテ:楽し気に)系図を戴き、披き(ヒラキ)見ると、正統の家系図に間違いなく、再び頭を下げ老人に感謝し、お金をはらおうとすると、老人が「当国には正統の馬場の末裔を名乗りたがる者が多い、そういう者たちにこの系図を渡せば、この様な年寄りが生涯安楽に送る程の謝礼を受け取る事が出来ます。しかし、正統でない者にはいくら萬金を積まれても渡すことは出来ない。あなた様は濃州の正統なので、今日まであなたがここに来る事を待って護っておりました。私のような老人でも、とても悦ばしく思っております。礼には及びません。」と受け取らない。某氏が「せめて姓名だけでも教えてください。」と問うと「愚老には姓も名もない。ただ韮崎の馬場の沓である。」と答えた。
馬場某氏は系図を手に入れた悦びに早々に暇乞いして、帰府し、主君にその報告をした。 太守は正夢の報告に感じ入り、彼の士の家禄を増し、上職に薦めてくれようとしたが、某氏は謹んで言う。「私が今日のような青雲の身になれたのも、ひとえに韮崎の老人あっての事。願わくば、今一度、韮崎へ行き、老人を連れてきて、彼を私の父として仕えさせてくれるように願いたい。」太守もこれを許可したので、再度 甲州韮崎に来て、前回の駅馬問屋や馬方を尋ねようとしたが、跡形もない。地元の者が言うのには、「そのような名の問屋も、何蔵というような名の馬方も、ここ何年もいない」と言う。また、某氏が乗った白河原毛の馬というのもこの付近では見たことがないという。
某氏も不思議に思い、老人の小屋を尋ねてみたが、やはり跡形もなく、ただ、松や柏が茂って風の音がしんしんとしていた。そして、そこにあるのは一つの古墳のみ。
是が馬場美濃守の墓であった。
某氏は、落ちる涙に袖を濡らし、墓前にひれ伏した。思うに濃州の霊が仮に顕れて嫡々の末葉に家系を護ったのだろう。
「裏見寒話」 追加 怪談 の項より
【裏見寒話とは、野田成方が甲府勤番士として在任していた享保九年~宝暦三年(1724-1753)までの30年間に見聞きしたり、調べた甲斐の国の地理、風俗、言い伝えなどをまとめたものです。只々聞いたものを記すだけでなく、良く考察されており、当時の様子や、一般の人達にとって常識だった歴史上の事柄を知ることが出来る。】
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馬場美濃守とは
馬場信春(又は 信房)
武田四天王の一人。信虎、信玄、勝頼に仕え長篠の戦いで討ち死にした。一国の太守になれるような器量人であったと評されている。
◎墓所・・・愛知県新城市
・・・・・・甲州市 恵林寺
・・・・・・北杜市白州町 自元寺(菩提寺)
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