1582│忍草浅間神社のかぐや姫(南都留郡忍野村忍草456)
ソース場所:浅間神社(南都留郡忍野村忍草456)
●ソース元 :・ 山梨県神社庁HP
・ 文化庁 国指定文化財等データベース
・ 富士山かぐや姫ミュージアムHP
●画像撮影 : 年月日
●データ公開 : 2021年05月21日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他 : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。
【概要】
富士山の神様と言えば木花咲耶姫である、ところが、富士山が盛んに噴火を繰り返していた平安時代から鎌倉時代、あの「かぐや姫」が月ではなく富士山へ帰って行ったと言うお話が富士山麓で伝わるようになった。残念ながら山梨県側ではそのような伝承は現在見ることが出来ないが、忍草にある浅間神社に伝わる三神像(国の重要文化財に指定されている)が神様というより風貌が俗人的である事もあり、かぐや姫(富士山)と竹取の翁(愛鷹山ー鷹飼)、媼(金時山ー犬飼)の三神と考える人もいる。富士山麓の人々が厄災をもたらすこともあるが、同時に恵みをもたらす富士を毎日仰ぎながら、あそこには天子様でも手に入れることの出来ない美しい姫がいる。と信仰していたら、なんだか素敵ではありませんか?
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忍草浅間神社(旧村社)由緒沿革
人皇第五一代 平城天皇 大同二年(807年)創建され、文治二年(1186年)丙午年 社殿再建される。建久四年(1193年) 源頼朝公 富士裾野巻狩の時、鳥居峠鬼坂迄御朱地として賜る。同八月六日 鎌倉幕府武運長久祈願申付けられ 和田小太郎義盛、畠山次郎重忠 隨神門と金剛力士像(運慶作)を建立した。甲斐国志に忍草村産神也神体三躯 木花開耶姫命・鷹飼・犬飼 各座像長口尺三寸各膝下に刻記あり「正和四乙卯大歳(一三一五)十月二十三日云々」県下最古の貴重な神像であり国の重要文化財に指定されている。 (山梨県神社庁HPより)
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木造女神坐像(伝 木花咲耶姫) 1躯
木造男神坐像(伝 鷹飼 及 犬飼) 2躯
・国の重要文化財 2005.06.09指定
・鎌倉時代(正和四年) 各像底に 正和四年十月 仏師静存 の銘がある。
富士山北麓の吉田口登山道に位置する忍野村の浅間神社に祀られる三躯の神像である。髪を垂髪にして女房装束を著した女神像に、髷を結って小袖と思われる衣の上に道服を著した男神像を左右に配する。
構造は、各像とも頭躰幹部を檜と思われる針葉樹の一材より彫出し、両袖部、両足部等を矧付け、白下地のうえ彩色を施す。三躯とも木口が変形の台形材を用いているので三体を同木から彫出した可能性もある。
その像容は、俗人的な風貌が従来の神像とはやや異質であるが、三躯とも切れ長の目尻がやや上がり、かすかに微笑する口元の跳ね上がる表現などは中世の神事面や能面の特徴に通じ、神像としての異相をよく表しているともいえる。初期神像によくある仏教との習合神や唐風の宮廷官人風の形姿ではなく、当時の貴族の女性や俗人の風俗を借りた和風装束の形姿をなす。こうした服装の神像は建長三年(一二五一)製作の奈良県吉野水分神社の木造玉依姫命坐像(国宝)とともに鎌倉時代以降の新様を示すといえる。
各像底には、「正和四年十月廿三日」「佛師丹後國住人石見房静存」「別当東圓寺」などほぼ同文の銘文が記されており、正和四年(一三一五)十月に仏師静存【しょうそん】によって製作されたことがわかる。仏師静存については知られていないが、銘文に記される東円寺は当社の近隣に現在もあり、本像製作の五年後の文保四年(ただし文保は三年まで。元応二年〈一三二〇〉か)に同じ静存により造られた聖観音像が伝来している。丹後国住人というところから地方を巡る仏師とも考えられ、そのような造像の実態を考える上に貴重な資料となる。
富士浅間信仰に伴う浅間神社は静岡、山梨両県を中心として各地に建てられた。当社の創立は不明であるが、最初に勧請された浅間神社として知られる小室浅間神社には数体の木彫の男女神が安置されていたことが記録の上からわかるが現存しないようである。男女神を神体として祀るのは古くからの形態とみられ、本一具は浅間神社の神像としては最古の遺例であり、しかも保存状態良好な数少ない神像の在銘像として注目すべきものである。 (文化庁データベースより)
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神社の由緒書きにも記載されているこの三神像だが、これをかぐや姫と竹取の翁、媼の三像だとする説もあるようです。
よく知られている「竹取物語」のお話では、最後にかぐや姫は月に帰っていくのですが、その時、帝に手紙と「不老不死の妙薬」を渡していきます。しかし、帝はかぐや姫のいなくなった世界で不老不死の身体を得ても、さみしいばかりだと最もかぐや姫の世界に近いと思われる高い山の山頂でその薬を燃やしてしまいました。不死の妙薬を燃やした山、それを「富士山」という。
忍野から富士山を挟んで反対側の富士市・富士宮市のあたりには、かぐや姫のふるさと伝説がある。彼の地には「富士山かぐや姫ミュージアム」というものもあり、かぐや姫ゆかりの地の説明や、富士市に伝わるかぐや姫伝説が詳しく、楽しく紹介されています。
それによると、竹取の翁が赫夜姫(かぐや姫)を見つけたのは、富士山麓の竹林で、その美しさは遠くまで聞こえ都の人々に見初められたが、彼女はこの世界の人間ではなく別の国へ帰らなくてはならない時がやって来る。そして誰も彼女を追いかける事も出来ないままかぐや姫は(月ではなく)富士山山頂の岩穴に帰って行ったというものです。そして、かぐや姫こそが富士山の神様で「浅間大菩薩」、竹取の翁は「愛鷹権現」、媼は「犬飼明神」だったというお話です。
富士山の神様である木花咲耶姫「かぐや姫像」と、鷹飼「竹取の翁」、(男神と云われるのが残念だけど)犬飼「竹取の媼」の三神が忍草の浅間神社には揃っているのです。
かぐや姫のふるさとという伝説の地は日本各地にあります。ただ、忍草浅間神社のこの三神像は、富士市あたりで伝えられていた伝説につながった神々であったかもしれません。今でこそ、山梨県内で「かぐや姫」のお話はむかしむかしの、遠いところでのお話となっていますが、この三神が造られた頃は身近だけど大いなる神様たちだったら。
これは江戸時代に忍野八海が富士山信仰と合わさり、お参りに行きたいあこがれの観光地になるよりもずっとずーっと前のお話です。