0346│姫ん淵・下女ん淵

ソース場所:南巨摩郡富士川町高下4256 姫宮神社
●ソース元 :・ 土橋里木(昭和28年)「甲斐傳説集」山梨民俗の会
●画像撮影 : 2015年05月22日
●データ公開 : 2016年06月24日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
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【概要】 甲斐源氏 加賀美遠光の子 南部光行 は、鎌倉幕府で戦功を上げ甲斐国南部牧を与えられ、信濃三郎から南部光行と名乗りを変えた。奥州合戦で戦功を挙げると陸奥国に領地を与えられ、彼の六人の息子は一戸氏、三戸南部氏、八戸氏、七戸氏、四戸氏、九戸氏それぞれの祖となった。 公文書として残る子孫は陸奥の国へ向かってしまったが、南巨摩の地に残った子孫もいたのでしょう。南部重清なる人物も甲斐源氏の名門の家柄とされ北面の武士として天皇にお仕えする事があったのかもしれません。天皇に忠功を励み美しい姫を賜り、仙洞田の地へ帰ってきました。 しかし、時は応仁の乱で世の中が乱れた時代、仙洞田重清は御所警護のため姫を置いて上洛しなければならなくなりました。重清の居ないなか、田舎の生活に勝手がわからず、都を恋しく思いついには川へ身を投じてしまいました。お付きの侍女もその後を追いました。姫が入水した場所を「姫ん淵」、侍女の入水場所を「下女ん淵」と呼ぶ。
仙洞田次郎重清は、後花園天皇の御宇北面の武士に列して御感斜ならず、寵姫浅黄の前を賜り、また姫に仙洞の二字を賜った。賜暇を得て本国に帰り穂積村(増穂村)高下坊に住んだ。この辺の田んぼを拓き、賜った仙洞に田を添えて仙洞田と号した。浅黄の前は夫や子どもがある身で、なお帰洛の情堪えがたく道利川に投じて死に、侍女某もその後を追って、同じ川の一町ばかり下で入水した。後人これを姫の淵・下女の淵と名づけ、今も両淵にその墓碑がある。
それよりこの淵の辺を通行する者は溺死し、また病気になり異変が生じたから、里人恐れて姫の霊を鎮めんとして、姫宮明神を勧請したが、後に諏訪大明神と改称し、今に至る一村の氏神となっている。 (松のしらべ方言伝説号)
土橋里木(昭和28年)「甲斐傳説集」山梨民俗の会
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35.531231, 138.425868