0590│皇女和宮の下向と夏秋村助郷

ソース場所:北杜市長坂町夏秋948 白山神社
●ソース元 :・ 長坂町教育委員会(平成12年)「長坂のむかし話」 長坂町役場
●画像撮影 : 2015年11月12日
●データ公開 : 2016年06月24日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他 : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。
[概 要]
皇女和宮の下向と夏秋村助郷 江戸時代末期、幕府が朝廷の許可なく日米修好通商条約に調印したことから、尊王攘夷派志士たちの反発を招き、朝廷との関係悪化も見られた。安政年間に何度も起こった大地震や津波のための田畑損、その後の経済不安などにより、幕府は弱体化していた。黒船来航により、国内の閉じた世界の中だけの政治経済ではなく、外交によって停滞する不安を突破しようとする考えもあり、幕府の体制はいつ崩れてしまってもおかしくないような時代に入っていた。そこで、将軍家茂の正室に朝廷の中心に近い皇女を迎えることで「公武合体」し、幕府と朝廷の絆を強めることとしました。
皇女が皇族以外に嫁ぐことを降嫁と言いますが、日本の歴史上、唯一武家に降嫁したのが和宮でした。それは、国の命運を握るほど重大なものでした。和宮は幼い時から決められた許嫁との約束を政治の力に反故にされ、最初は嫌々嫁いだようです、武家と御所では流儀が違うため、辛い目にもあったようですが、同い年でもあった家茂とは互いに一途に心を通わせる良い関係になりました、しかし、家茂はわずか四年程で大阪城にて病に倒れ薨去した。和宮は、その後の戊辰戦争で江戸が攻め寄せられた時、第十三代将軍家定の正室 天璋院篤姫と共に、江戸城総攻撃回避や、徳川家の存続に尽力したと伝わります。
和宮が江戸へと向下の行列は、幕府と朝廷双方の威信をかけたきらびやかで長い行列だったそうです。島崎藤村の「夜明け前」にも、和宮一行が木曽街道をゆく前後の騒がしさが描かれている。この行列には、各地から助郷として駆け付けた人々の姿があったのです。沿道より40km以上離れた夏秋村ですら、全41戸中38人が選ばれて行きました。担当したのは、当時の中山道の中でも一番の難所と言われた和田峠への荷物の運び上げでした。
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皇女和宮の下向と夏秋村助郷 (夏秋)
文久元年11月2日夜。夏秋村白山神社には、明朝早く信州の下諏訪宿へ助郷(すけごう)役として出発する38人と、村に残って家の留守を守り、村の警備に当たる村人が集まり、神酒を戴き道中の無事を祈っていた。当時の夏秋村の総戸数は41戸であった。助郷とは、街道で宿場から宿場に荷物を運ぶための手伝いとして、人足や馬を出す村のことである。
時は、あと10年足らずで明治になろうとしていた。
長く続いた鎖国の世の中にも外国文化の光が少しずつ入り、外国からの開国要求も強まっていた。国の中は、尊皇攘夷派と開国派の対立が激しくなり政治も経済も混乱していた。
この難局を独力で乗り切ることは難しいと考えた幕府は、朝廷と幕府が協力して挙国一致の体制をつくるために、孝明天皇の妹和宮内親王を14代将軍家茂の室として迎えることを考えた。
文久元年10月20日。降嫁することになった皇女和宮内親王の一行は、京都を出て中山道を将軍の住む江戸へと向下した。その行列は、京都方、江戸方からの警備のものをふくめ、二万人、馬は千頭におよんだ。途中の宿場では、行列の先頭から最後が通り過ぎるまでに4日間もかかったということである。
この大行列を支えるために、中山道の各宿場では近くの村からのいつもの助郷では足りないので、遠くの村々からも大勢の人足や馬を徴発した。
そのため、下諏訪から10里(40km)以上も離れた北巨摩の村にまで助郷役のお触れがまわってきたのである。
さて、和宮の一行は、11月5日に下諏訪宿に入り諏訪神社近くの亀屋に泊った。6日は、和田峠で昼食をとり、和田宿で泊まることになっていた。
夏秋村の人々は、6日の朝下諏訪宿で一行に加わり、和田峠への急な峠道を荷物を運び上げ和田宿へ下るという大変な行程であった。
6日夕方和田宿に到着し任務を終えると、留守にしてきた村や家のことが気がかりで休む間もなく帰途についた。
6日の晩は大門村に泊まり、あくる朝は早く出て、大門峠を越え、柏原を経て立沢へとたどり着いた。すっかり暗くなっていた。38人の中には体力のちがいから、疲れのために途中で休んだり泊まらなければならない人もいて、立沢に着いた時は12人だけであった。
12人は立沢でおそい夕食をとると夜通し歩いて11月8日、5日ぶりに夏秋村に帰り着いた。東の空がかすかに明るくなりかけていた。 (内田元和)
長坂町教育委員会(平成12年)「長坂のむかし話」 長坂町役場