物語
Old Tale
#0593
光照寺旧鐘
ソース場所:都留市鹿留1976 光照寺
●ソース元 :・ 内藤恭義(平成3年)「郡内の民話」 なまよみ出版
●画像撮影 : 2015年12月15日
●データ公開 : 2016年06月24日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他 : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。
[概 要] 光照寺旧鐘 戦国時代末期、武田家亡き後、甲斐の国は徳川軍と北条軍の戦場となっていた。和睦が成立し、北条軍が小田原へ引き揚げるとき、都留市鹿留の光照寺の鐘を戦利品として略奪していった。ところが、小田原までの道中、担ぎ手が怪我したり、鐘がひっくり返ったりと苦難続きでした。小田原に着き城の陣鐘にすると、良い音を遠くまで響かせていたはずの鐘の音がおかしいのです。道中の事、陣鐘にしてからの変事から、鐘の祟りではと考え、みてもらうと、戦の陣鐘にしたことで鐘が祟っているという。光照寺へ返そうにも、既にそこは徳川方の地。仕方なく伊豆の国の修善寺に鐘は預けられ美しい響きを伝えていたという。今は、この話が「甲斐国志」に残るのみである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
光照寺旧鐘
戦国時代の末期、甲斐の国は徳川北条の戦いの場となり、郡内は一時、北条の領するところとなった。
徳川との和ぼくが成立し、北条軍は小田原へ引き揚げることとなったが、鹿留(都留市)の光照寺の鐘が戦利品として、略奪されていった。
鐘の変事は運搬の途中から起きていた。大勢が交代で担ぐのだが、担ぎ慣れたはずの人足の肩がはれて次の日には担げなくなる。肩の骨が脱きゅうする。担ぎ手がつまづいて釣り合いを失い、鐘がひっくり返り、けが人がでるなどであった。しかし道中は、交通の難所でもあり、ごく自然の現象に見えたので、これが鐘のたたりであると悟ったのは、しばらくたってからのことであった。
ともかく、戦利品として小田原城へ運び込まれた鐘は、小山田の陣鐘として披露され、やぐらにつるされてたたかれた。ところが鐘は鼓膜を裂くような金属音で「キーン」と鳴った。つき手が悪いのではと交代すると、頭の割れるような大音を発したり「コン」とかすかな音で鳴ったり、「パシン」とほおをたたくような音を発するのであった。つき手によって音が変わるには変かるが奇妙な音には変りがないので、つき手のせいではないということとなり、今度は撞木(しゅもく)を変えてみたが結果は同じで、とても寺の鐘の音とは思えない鐘音であった。その上、鐘をつくようになってからは、ある者は耳が遠くなり、ある者は頭痛におそわれ、戦に参加した武夫のうち、ある者は狂気のようになり、また鐘をついた者は手がまひするなどで、運搬中の変事と合わせ考えて、鐘のたたりであろうと思い当たった。
早速、修験者にみてもらったが、鐘の銘を読んで「これは大医山の光照寺にあってこそ光があまねく八方照らすがごとく、薬師の恵みを鐘音に乗せて安らけく分かちほどこすもので、小田原の城にあっては、何の役にも立たぬ。しかも光照寺の本尊は人を助ける薬師さまのはず。それを人を殺す陣鐘に使うなどとはもってのほか、病としてたたるのは当たり前、早々に返すがよかろう」と宣告した。
驚いて早速協議し返すこととはなったが、今は徳川家康の家臣、鳥居元忠が領する敵地とあっては返すに返せない。そこで同じ曹洞宗で伊豆の国きっての名刹 修禅寺が甲斐の国と縁が深いので、修禅寺に預けられた。
安住の地を得た鐘は江戸時代の終わりごろまで、重々しく余韻をただよわせ、美しい響きを伝えていたが、廃仏毀釈で失われたのか、今は甲斐国志がこれを証明するのみである。
内藤恭義(平成3年)「郡内の民話」 なまよみ出版
このデザインソースに関連する場所
Old Tale
Archives
物語
山梨各地に伝わる昔話や伝説、言い伝えを収録しています。昔話等の舞台となった地域や場所、物品が特定できたものは取材によって現在の状態を撮影し、その画像も紹介しています。