


物語
Old Tale
#1165
大磯小磯
ソース場所:南巨摩郡身延町大磯小磯
●ソース元 :・ 土橋里木(昭和28年)「甲斐傳説集」山梨民俗の会
・ 現代語訳 吾妻鏡 五味文彦・本郷和人 編 参照
●画像撮影 : 201年月日
●データ公開 : 2017年01月05日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他 : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。
[概要] 身延町大磯小磯の地は、鎌倉時代初期の「頼朝の富士の巻狩り」の最中に起きた「曽我兄弟の仇討」事件を起こし、討たれた兄の 曽我十郎祐成とつながりのある人(彼の恋人は「大磯の虎」と呼ばれていた。また。彼女は当時身ごもっていて、その子と共にこの地に流れて来たとこの地では伝わる)が隠れ住んだから大磯小磯の地名が付いたと言い伝えられている。
日本三大仇討の一つと言われる「曽我兄弟の仇討」は、建久四年(1193)五月二十八日の出来事でした。「富士の巻狩り」という鎌倉幕府のイベントの最中に、源頼朝が可愛がっていた工藤祐経がターゲットにされました。この直後、鎌倉幕府による曽我兄弟関係者の取り調べが行われます。(以降「吾妻鏡」による)同年六月一日 曽我十郎祐成の恋人 大磯の遊女 虎 が呼び出されました。取り調べの結果、何も知らされていなかったことがわかり、お咎めなしとなりました。 彼女は祐成が何か覚悟を持っていたことは気付いていたかもしれませんが、それが仇討であったり、もう彼と会うこともかなわなくなったとは思いもせず深い悲しみにくれました。 六月十八日 故 曽我十郎祐成の恋人 大磯の虎は黒衣に袈裟を着け、亡き恋人のために箱根神社別当、行実坊で法事を行いました。かな文字の追善文書を三宝に添え、祐成から最後にプレゼントされた葦毛の馬を引き出物とし、お経を唱える布施にしました。そしてすぐに出家し、彼の追善供養のため信濃の善光寺へと向かいました。彼女はその時十九歳の若さでした。後にこの曽我物語を見聞きした者は、俗人も坊主も皆、涙を拭わない者はなかったという。 この虎のその後についてのお話が、山梨県内に残されている。
大磯小磯 西八代郡古関村
鎌倉時代の初期、曽我氏がこの地方に来て、戦に敗れ自害して後、その妻(虎御前と伝う)は懐妊の身であったが、一子を連れて相模の大磯より来たり、主人の死を聞いて小磯地内の字焼間に隠れ、やがて一子を産み、連れて来た子と共に二子を養育して、後に大磯・小磯の部落を拓かせたのだという。相模の大磯に因んだ地名であろう。 (西八代郡誌)
土橋里木(昭和28年)「甲斐傳説集」山梨民俗の会
県内には傷心の虎御前が生まれ故郷の芦安の地で、しばらくの間羽根を休め、曽我兄弟の菩提のため尽くしたというお話も伝わっている。(参照 1141 虎女の鏡石)
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