1531│鬼御堂
ソース場所:韮崎市神山町鍋山1111 願成寺 鬼見堂[墓]
●ソース元 :・ 土橋里木(昭和28年)「甲斐傳説集」山梨民俗の会
●画像撮影 : 201年月日
●データ公開 : 2018年08月27日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他 : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。
[概要]
鬼御堂
願成寺にあり、源為朝琉球より潜行してこの地に来た時、従者の鬼界ヶ島人二名の中、一名病死したのを鍋山の崎に葬り、その墓所を鬼観堂という。またこの村には別に、為朝公を祀った為朝神社がある。 (北巨摩郡誌)
これは為朝公主従の墓で、中央が為朝公、両側が二鬼の墓である。鬼とは従者のことであろう。 (口碑伝説集)
土橋里木(昭和28年)「甲斐傳説集」山梨民俗の会
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「鬼御堂」は源為朝伝説ではあるが、願成寺は武田氏との繋がりの深い寺なので、それについても下に記す。
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曹洞宗 鳳凰山 願成寺
・ 宝亀二(七七一) 年、権大僧都 心休了愚法印 により開創され、京都 祇園寺 の末寺であった。 延長六(九二八)年、仏刹を建立して地蔵菩薩を安置し願成寺と号す。
・ 武田信義(一一二八~一一八六)武田の荘に館を営み、この寺を祈願寺として中興す。後白河法皇に山号を奉請。 京都の佛師に懇請し、造顕した木造 阿弥陀三尊を奉安す。(重要文化財) 降って中世末 戦国時代、武田信虎の甥 俊虎和尚 のとき、臨済宗に改宗し諸堂を整え寺運興隆す。 俊虎和尚の中興本願に応じて、永禄二(一五五九)年二月、甘利住武田衆 曽雌対馬守貞能 が、木造 阿弥陀三尊を寄進している。(本堂安置の市文化財)
・ 天正一〇(一五八二)年、織田信長の兵火に伽藍焼火。 復興緒についた慶長一二(一六〇七)年、寺より出火。再度の火災に衰退にひんしたるも、前記二組の阿弥陀三尊が焼亡を免れて今日に伝えられたことは不幸中の幸、まことに奇瑞と云うべきである。
・ 寛永十五(一六三八)年、然室応廓和尚 を迎え、曹洞宗に改め 復興緒につく。万治元(一六五八)年、弟子で当地出身の 赫山和尚 法燈を嗣ぐや、桔据経営 廃れるを興し、欠けたるを補ひ、一山の面目を保つに至る。 即ち寛文年間に庫裡を、元禄年間に本堂受付を建立し、什器を整えて今日に至る。 この間、廃仏棄釈、不況、戦争 等の世相に荒廃余儀なき 約一世紀を経過し、現在、境内伽藍の復興整備中なり。
・ 現地説明板より