物語
Old Tale
#1544
金掘り人夫のお奉行様
ソース場所:早川町保
●ソース元 :・ 「早川のいいつたえ」第四集 著者:三井啓心 出版社:㈱上田印刷
●画像撮影 : 年月日
●データ公開 : 2020年08月19日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他 : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。
【概要】 天保12年(1842年)農家の息子から出世して役人になったという優秀な人物が、保山に金山奉行として赴任してきます。この人物は、今の甲州市塩山中萩原に生まれた真下専之丞という人物で、彼は立身出世したけれど、自分の仕事に必要と思えば「きつい・汚い・危険」な3k仕事でもいとわずチャレンジしていくような人でした。その人にまつわる昔話があります。
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保[ホウ]のいいつたえ
『金掘り人夫のお奉行様』
保の集落は、武田信玄の時代より、金掘りで栄えました。質の良い金鉱で、雨畑金山と共に知られていますが、甲斐国志にも、芳山[ホウヤマ]、とか、保山[ホウヤマ]として、記録があります。
天保十二年のはじめ、この山に平兵衛という人夫が、働きに来ました。仕事が熱心で、仲間ともよく折り合い、短い期間に仕事をおぼえました。また、村の慣習にも慣れ、名主の家に出入りして、そこの小さい息子をかわいがりました。
この時代は平和で、武士は、手柄が立てられないから、生活が苦しく、ほかに才能を持つ人は、武士の株を売り、転職したり、また、百姓、町人でも、株を得て武士になれる者もいました。塩山市中萩原の、藤助(*後の真下専之丞)もそのひとりで、二十七才で江戸に出て、武家の小者になり、三十二才で、武士の端くれから、石和の代官の手代に出世、三十八才で、幕府直参、真下家の家禄を受けました。四十三才の、天保十二年のはじめ、金山奉行として、保金山に着任を命ぜられました。
名も専之丞[センノジョウ]と名乗っていましたが、金山の知識は全然ありません。そこで、着任までの六ヶ月間に、仕事をおぼえてしまおうと、人夫になって入って来たというわけです。短い期間に仕事の裏までおぼえ、姿を消して専之丞は、今度は、金山奉行として、供揃えもいかめしく保の役宅に入りました。
ひれ伏す村役人や、金山関係の役人は、つい先ごろまで、人夫だった平兵衛と気づいた者はひとりもいませんでした。ところが、数日たって、名主の家をおとづれた専之丞に、名主の息子が、「おじい」といって飛びつきました。子どもの目には、位も服装も関係ありません。かわいがってくれた人、平兵衛の姿を見た喜びだけでした。事実がわかった村の人びとの驚きは、やがて尊敬に変わりました。
困ったのは、人夫たちで、金粒のくすね方まで、仲間として教えていたので、あわてました。専之丞の顕彰碑は、しだれ桜で名高い、塩山市の慈雲寺にあります。
★ こまっこい[こまかい]ことは、塩山市の「真下晩菘会[マシタバンスウカイ]」に聞いちゃあ[聞きなさいよ]
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小説「たけくらべ」で知られる、明治時代の小説家 樋口一葉の両親は結婚に反対され、同郷出身で出世し郷里の知人の世話をしていた真下晩菘[マシモバンスウ]を頼り駆け落ち上京した。
一葉の妹 くに は、若くして亡くなった一葉の草稿や日記、反古とした文章のかけらたちを、保存、整理に尽力した。大正十一年、くには成功していた縁戚の廣瀬彌七や両親の出身地の有志らの協力のもと、多くの近代文学者達にも賛助してもらい一葉の文学碑を慈雲寺境内に建立した。
慈雲寺では、「真下晩菘先生碑」とともに「一葉女子碑」も見ることができます。
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