0395│百石石

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ソース場所:南巨摩郡南部町南部御崎原 円蔵院

●ソース元 :・ 土橋里木(昭和28年)「甲斐傳説集」山梨民俗の会   
●画像撮影  : 2015年07月27日
●データ公開 : 2016年06月24日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他   : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。

[概 要]

天文9年、前年の大雨・洪水などによって、年明け以降、各地で飢饉が発生した。さらに春にも大雨・洪水の発生、疫病の流行などがあった。下山の領主 穴山信友は領民の飢餓を救うために米を給したが、農民らに労働の大切さを忘れさせないため、円蔵院に富士川の河原から石を運ばせ、その労力に対して米を支給した。その為、この時の石を百石石とか千石石と呼ぶ。

飢饉は、飢えのあまり翌年のための種籾まで食べてしまったり、餓死者が増え、翌年天候が良くても収穫量が不足し、二年続けての飢餓状態にさらされることがよくあった。また、庶民の栄養・衛生状態も低下するので、疫病流行も重なることが多かった。領主の施策が上手くいった事例なので、「百石石」という呼び名が今に残っている。

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百石石
円蔵院の庭は名石、大石で有名であるが、これは天文(1532-1555)中、下山の城主穴山信友が、領民の飢餓を救うため、富士川の河原から石を運ばせ、一石につき百石の米を給したのによる。何の勤労もなくて支給したのでは、農民が怠惰になるのを恐れたためで、農民は米の給与に喜んで石運びをし、それでこの石を百石石(ひゃっこくいし)と呼ぶ由。今は五六個の百石石が残っているだけである。 (地歴の甲斐二ノ一「南境の伝説」)

土橋里木(昭和28年)「甲斐傳説集」山梨民俗の会

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南巨摩郡南部町南部7576-1
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