0583│菅沼の由来と神明社

ソース場所:北杜市長坂町白井沢2970 神明神社
●ソース元 :・ 長坂町教育委員会(平成12年)「長坂のむかし話」 長坂町役場
●画像撮影 : 2016年01月07日
●データ公開 : 2016年06月24日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他 : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。
[概 要]
菅沼の由来と神明社(旧村社) 北杜市長坂町白井沢菅沼地区の神明神社は、創建年不祥ですが、正親町天皇の頃(1557-1586)、逸見筋 小林久右衛門が徳川家康に従い伊勢神宮の造営にあたった。伊勢神宮より神札、鏡を奉じて帰り、菅沼の古沼のほとりに社を造った。孝明天皇の御代(江戸時代末期 1846-1866年)、安政の飢饉があり、それと前後して大水害で沼も埋まり、社も大破したので、古城址で高台にある現在地に氏子一同の寄進を受け御遷宮した。菅沼の地名は、伊勢五十鈴川近くの菅沼の地に似ているから名付けたという話もある。
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菅沼の由来と神明社 (菅沼)
神明社は、その昔この地に住んでいた武士小林隼人守(こばやしはやとのかみ)の子孫が、徳川家康に従って伊勢神宮の造営にあたり、後に神社札と鏡を奉じて帰り、菅沼の古沼のあたりに造った社である。菅沼という地名は、伊勢五十鈴川の辺りに近い菅沼の地に似ていることから、名づけたという話がある。また古沼という地名があることから、スゲのはえるような沼地があったことによるという説もある。
孝明天皇の御代、大水害により池も沼も埋まり杜も大破したため、城祉である高台の現在地に、氏子の寄進により還されたといわれている。 (小林寅雄)
長坂町教育委員会(平成12年)「長坂のむかし話」 長坂町役場