0597│泣き欅(西涼寺「儀秀稲荷社」)

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ソース場所:都留市中央4-4-1 西涼寺

●ソース元 :・ 内藤恭義(平成3年)「郡内の民話」 なまよみ出版
●画像撮影  : 2015年07月13日
●データ公開 : 2016年06月24日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他   : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。

[概 要]

泣き欅  都留市中央の西涼寺境内に「儀秀稲荷社」という由緒ある社がある。三百年ほど前、谷村城主だった秋元公が国替えにより川越に移ることになった時、谷村城の守護稲荷だった社を、西涼寺に下賜しようということになった。そこで、本堂裏の欅を伐って社屋を造ることが決まり、寺の和尚が樹木供養の念仏をあげていると、見なれぬ美しい女が「木を伐らないでください、もっと大きな木になった時必ず役に立ちますから」と泣きながら言い姿を消した。和尚や檀家たちはこれを神意とし、その木を残した。その後、その欅の下は晴が続いた時でもしっとりと湿っていることから助命を喜び泣いているとし「泣き欅」と呼ぶようになった。
昭和24年5月13日午前2時、下谷地区の撚糸工場から出火した火事は、都留市谷村の中心繁華街を大きく焼失させることになった。400棟以上が焼け、罹災者も1500人以上いたという。西涼寺付近も同様で、伽藍も庫裡もみな焼けてしまったが、奇跡的に「儀秀稲荷社」だけは焼け残った。その傍らには枝葉を失い、幹も焼けただれた「泣き欅」が、静かにたっていた。

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泣き欅
三百年程前、西涼寺(都留市)の守護神に儀秀稲荷を勧請することとなった。檀家総代の集まりで、社屋の建造に役立てようと、本堂裏の欅を伐ることとなった。欅が伐採されるときまると、西諒寺の和尚は樹木も生命あるものとして、供養の念仏をあげるために本堂の裏山に登った。
経を読み、南無阿弥陀仏の十念を唱えているとき、和尚の足もとを白い犬のようなけものが走り、何かと気をとられた瞬間、和尚の目の前に欅を背にして見なれぬ美しい女が立っており、涙をながしながら和尚を見つめているのである。
何やら訳のわからぬまま和尚が泣いている訳を聞くと、女は「稲荷を祀ることとなって、この木を伐ることとなったがどうかこの木を伐らないで下さい。この木がもっと大木になったとき必ず役に立ちましょうから」と言い終ると、忽然と狐に変身し足元を走って稲荷社が建てられる予定の草むらに消えた。和尚はさきほどの犬のような白いけものが狐であったことを知り、稲荷を建てようとする地に消えたことから稲荷のお使いである狐がはやくも神意を伝えるために現われたことを知り、ことの次第を檀家総代に語った。
西涼寺に勧請される稲荷は谷村城の守護神として祀られていた稲荷で、城主秋元公が国替えにあたり、西諒寺に下賜しようとするものであったのであったので、壇家の人々はこのお告げを聞き「さすが城の鎮守のお稲荷様だ、霊験あらたかに違いない」と驚たんし、狐の願いを聞き入れ欅を伐ることはとりやめとし、用材は他から求めることとした。
その後不思議なことが起きるようになった。どんなに晴れの日が続いても、欅の木の下はしっとりとしめっており、木の下にたたずんでいればしずくが落ちてくるのである。人々は「欅が助命されたことを感謝して泣いているに違いない」と思ぃ、誰いうともなくいつしか「泣き欅」と呼ぶようになった。
それから三百年、伝説を秘めた「泣き欅」は谷村の老大木に数えられるようになっていた。
昭和二十四年、下谷村半分が焼けるという大火があり、谷村の名刹 西涼寺の大伽藍も庫裡も鐘撞堂も丸焼けとなった。だが、炎をまともに受けたはずの儀秀稲荷だけは焼け跡に無傷で残されていた。稲荷の傍にあった大欅は小枝や葉をすっかり失い、太い幹までも焼けただれた無残な姿であったが、それは間違いなく襲いかかる猛火に立ちはだかり、稲荷に火焔の及ぶのを防いだことを物語っていた。その木こそ「泣き欅」と呼ばれて谷村の人々が親しんできた大樹であった。
人々は「大きくなるまで生かしてくれ」と言った狐の願いとはこのことだったのかと伝説を改めて思いおこし、語り合った。大火のあった五月十三日は儀秀稲荷の祭日となり、寺の守護神は火難防災の神として多くの参詣者でにぎわいをみせている。

内藤恭義(平成3年)「郡内の民話」 なまよみ出版

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